加藤元浩『C.M.B.』5巻 講談社

C.M.B.』というマンガの5巻目でした。この巻には「グーテンベルク聖書」と「森の精霊」というお話しが入っていました。

グーテンベルク聖書」にはタイトル通りグーテンベルク聖書が出てくるのですが、活版印刷が発明される前の知識の独占されていた時代という説明を読んで、本に書かれた知識が一部の人たちの間だけで流通している状態というのは、どういった状態なのだろうと思いました。その流通の外にいる人は、その知識に触れる人(の口)を通じてしかその知識を知ることができなかったとすると、今みたいに本をダラダラ読んで過ごせてしまう時代だと、常套句ですが、インターネットでいろんな情報にアクセスできる時代だと、ほとんど全てのことを知ることができるような錯覚を持ちますが、その中でもアクセスすることのできない「知識」はあるような気がして、知ることのできないことや、分かることのできないことがちょっと不気味に思えました。

と、いうのも、「グーテンベルク聖書」というお話し自体が、聖書をめぐる闇市場とブローカーが関係するお話しで、美術品の価格とかも出てくるのですが、そういったものに関心の全くない私にとっては、その市場と関係者によって作られている経済効果が虚ろなものに思われて、でも、自分が関心を持っている例えば本なども、全然関心のない人にとっては、インクの染みがたくさんついた紙の集まりになんであんなにお金を出すのかとか思えるんだろうなとか考えて、この世の中って、虚ろなのかなあと思いました。

「森の精霊」というお話しでは、次の言葉が印象的でした。「勝ったものは敗者の返り血を浴びるのだ そのとき初めて失ったものを知るだろう」このお話し全体を読んだときに、この言葉がもう一度出てくるのですが、その意味するところを考えてしまいました。

グーテンベルク聖書」では技術の発達にともなって、変わったオーラルからリテラルへの変化(という生まれるものの側面)を考えてしまったのですが、「森の精霊」では技術の発達にともなって失われていくもののことを考えてしまいました。

最後に「森の精霊」では、熱帯雨林の中に入って、伐採の傷跡があるかのような記述があるのですが、もし自分が実際に雨林帯に行ったとしても、伐採の傷跡を感じてしまったとしても、予め自然破壊があるというお話しを知っているためのように思えて、もしそういった予備知識がなかったとしたら、同じものを目にしたとして、何を感じたり思ったりするのだろうと、そんなことを考えてしまいました。