スーザン・ブラックモア『ミーム・マシーンとしての私』上 草思社

この本を読もうと思ったのは、山本弘さんの『神は沈黙せず』の参考文献にあげられていて、興味を持ったためです。

序文を『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスさんが書かれているのですが、その中でOEDの定義ですが、「ミーム」の定義が書かれています。「ミーム 非遺伝的な手段、とくに模倣によって伝えわたされると考えられる文化の一要素」(p10)

私が「ミーム」のお話しを聞いて面白いなと思ったのは、それが「言説」について言われていることと似ているなと感じたためです。この本の中でも、ミームについて議論をしても、その背後に生物学的なもの、つまり遺伝子による自然淘汰のようなものを見ているって感じのお話しとかあって、以前、何で読んだか忘れたのですが、言説分析と言っているけれど、イデオロギー分析と変わらないのじゃないか、単純に「イデオロギー」で済ませていたところのものを「言説」という余分な言葉で置き換えて2度手間をかけているだけじゃないかという趣旨の文章を読んだことがあって、この上巻の後半部分でもブラックモアさんは、ミームと遺伝子の相互作用や、遺伝子が有位になる場合など、言っているのですが、なんとなく、言説とイデオロギーの関係を考える上で、ミームと遺伝子の関係とか詰めて考えていくと役に立ったりするのかなあと思いました。

読んでみて、言説とミームって似ているなあと思ったのですが、単純に言説がミームの一形態なのかもしれないのですが、単位が決められないこととか、(確か、ヴィビアン・バーという人がAn introduction to social constructionismという本の中で言説の定義の難しさに紙幅を割いていたと思いますが)「最良のもの」が生き残っていくといっても、その「最良のもの」がよく分からない点とか、(言説については「パブリック・アリーナ」モデルというマイナなモデルを念頭において考えてしまうので)似ているなあと思いました。

ブラックモアさんは、『利己的な遺伝子』といったときの「利己的な」という部分の解釈について慎重な記述をしています。最初に引用したOEDの定義を読むと、ミームって、人が主体になって人へと渡されていくような感じを受けるのですが、遺伝子が「利己的」に人体を乗り物(ヴィークル)として使っているように、人が行う模倣を乗り継いでミームが「利己的に」広がろうとしているように考えられて、あるのかないのかよく分からないものが主体性を握っているようで、そういった存在を「ミーム」と呼ぶことで、考える対象としてはっきりするなあと思えて、面白いと感じたのだと思います。