東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社現代新書

この本を読もうと思ったのは、ちょっと興味があったからです。副題は「動物化するポストモダン2」となっていました。

『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』(この本の参考文献に『動物化するポストモダン』があげられていて、「大きな物語」の衰退による個人の不安がスピリチュアルを受容させていると、乱暴に言ってそういう説明もあったので)を読んだ後だからかもしれませんが、「ポストモダン」が言うところの「大きな物語の凋落」というものがピンときませんでした。

「『大きな物語の衰退』は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、『その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである』というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だった」「ポストモダン相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある『大きな』物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。」(p19)とされています。

でも、そこで個人がある種の辛さを感じてしまうのは、そいうった相対主義とは反対のものを信じなくてはならないという認識があって、多文化主義的な状況がそのあるべき姿から離れていると感じるためじゃないのかなとも思えて、共有化すべき特定の物語を見つけられないとしても、そういったものを共有すべきだという圧力は依然としてあるんじゃないのかなと単純に思いました。

あと、「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」という区別を設けてお話ししている箇所があるのですが(p143~)、情報がストックからフローになっていきているという説明をどこかで聞いたことがあるのですが、そういった説明との違いってあるのかなあと思いました。

この本は、1章の理論と2章の作品論と付録が2つでできていました。個人的に2章が面白かったです。

最後に、『Air』というゲームについて書かれているのですが、その中で主人公(?)の女の子(個人的に川上とも子さんのイメージしかないのですが)はどーしたって救われないとされていて、私はお話しの結末を知ったときに、救われない流れの中で、ちょっとずつでも幸せを感じることで、そういった不幸が薄められていくのかなと思っていたので、意外でした。と、いうのも、悲しみの5段階(five stages of griefだったかな)というのを聞いたことがあって、あと、病気になった人は「どうして自分なのか」という「why me question」を発してしまうと聞いたことがあって、そのどうしてに意味を与えるものの一つとして、永遠に続いていく不幸や悲しみを薄めるという解釈もあるのかなあとぼーっと思っていたためです。こう考えるのには、もう一つ理由があって、とても小さかった頃、何かの絵本(もしかして『青い鳥』かもしれません。)で、兄弟がいろんな世界を周っていくものがあって、最後らへんで、子どもが生まれる前にいる世界があって、そこで、病気を抱えて生まれていくことになっている子どもを見て、どうしてですかと聞く場面があって、才能をもって生まれていけない子は変わりに病気を持っていくんだよって答えられていた記憶があります。記憶が曖昧なのですが、それを読んだのが病室だった気がするので、多分、何かで入院していたときだと思うのですが、病気であることの意味付けとして、そういった説明は子供心に納得できなくて、なんとなくずっと引っかかっていて、『Air』の結末を知ったときに、これなら、正しいかどうかは置いておいて、少しは納得できるかなと思ったので、意外でした。って、多分、『Air』に思い入れをもっている人からすれば「違ーう」って言われてしまうのかもしれませんが。