田川建三『キリスト教思想への招待』勁草書房

この本を読もうと思ったのは、先日読んだ本の中の紹介を読んで、面白そうだなと思ったからです。

「宗教をやったらどうですか?」これは、高校生だったときの担任の先生が面談でウチの親にいったらしい言葉。「出家すれば。」これは先日、職場の人が私に対して言った言葉。と、いうわけで、なんか自分には宗教に帰依しなくてはいけないと思われるところがあるんだろうかと、ちょっと気になっていたこともあって、読んでみました。この本は次の4章から成っていました。「人間は被造物」「やっぱり隣人愛」「彼らは何から救われたのか」「終われない終末論」です。

この本を読んで思ったことは、田川さんは、キリスト教の考えを説明しながら、それにツッコミを入れるかたちで記述されているのですが、そのツッコミの雰囲気が魔邪さんのようだなということです。例えば、「此の世に生きている人間が、百%此の世を否定し、此の世からの脱却を願うとすれば、自殺する以外にない。逆に言えば、自殺せずに生きている人間が、嬉しそうに毎日生きている人間が、この種の二元論の考えを主張するのは、所詮、宗教的観念をもて遊んでいるにすぎないのである。」(p56-7)という箇所なんかから、そう思いました。

あと、理性についてのお話しがあって、そこで神の理性と人間の理性があって、人間の理性は中途半端だと書かれているのですが、理性的であることや客観的であることがある種の高次の審級として想定されるときに、理性自身に階梯が存在してしまうなら、ホントの理性と中途半端な理性を決める基準を何に求めるのだろうと考えてしまいました。昔、ジョン・ロックの『人間知性論』(だったと思う)を一部読んだことがあるのですが、その中でも、理性にもホンモノとニセモノがあるように前提されている気がして、同じような疑問をもったことを思い出します。その基準って、きっと神のものかどうかってことなんだろうけど、その辺のところがイマイチ分からないなあと思いました。

「身体の病気であろうと、現在の世の中にうまく適合する能力に欠けるところがあろうと、能力というか図々しさというか、その他さまざまな事情も、煎じつめれば、その人の責任というよりは、運が悪かった、と言うしかないだろう」(p139)という記述があるのですが、『宇宙のステルヴィア』というお話しの中で、「私って運が悪いんです。」という主人公に対して、それじゃ、自分が成功しているのは、努力のおかげじゃなくて、運が良かったということなのかしらと、叱責する先輩が出てくるのですが、どこまでが自分のコントロール下にあって(少なくとも、そう信じてもよくて)、どこからが手の出せない世界(だとして諦めてしまうのか)なのかということってムズカシイなあと思いました。