小林照幸『熟年性革命報告』文春新書

この本を読もうと思った理由は、分かりません。なんか今日一日の中でそんなことを考えるようなきっかけがあったのかもしれません。以前、『セックスボランティア』という本を読んだことがあるのですが、それは障害をもつ人に性的介助(ポリティカル・コレクトネスな言葉づかいがイマイチ分からないのでこの言葉を使います。)をすることについての本だったと思います。で、そのとき、気分が悪くなってしまいました。性的なこと自体ではなく、それを迫る圧力のようなものを感じてしまったからでした。障害をもっている人のことを「本当に」思っているのなら、(ボランティアとして)性交することも厭わないはずだという縛りがあるように感じてしまったからです。踏絵のように感じてしまうからです。これは臓器移植の場合でもあると思います。その人のことを本当に思っているのなら、臓器を喜んで差し出すべきであると。こうした、何かをしないことで本心を決め付けられることがよく分からなかったので、他の本を読んでみようと思って、この本を買って、本棚で埃をかぶっていました。本当に、なんで今日、読んだのかは分かりません。

内容としては、昔の厚生白書で言及されている老人をめぐる神話のひとつ、「高齢者は恋愛や性に無縁である」というものを脱神話化しようとするものだったと思います。主に老人ホームでの異性間の付き合いと、それに対する施設職員側の考えなどを題材に記述されていたと思います。そこでは、高齢者の性(性欲、性交)をQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の側面から見ていました。読んでみて、別に恋愛や性的なことでなくても、友達のいない友達の少ない今の自分って、空疎な人生を送っていることになっちゃうのかなあと落ち込んでしまいました。

あと、最後らへんで、老人ホームに入ることによって初めて恋をしたおじいちゃんとおばあちゃんのことが書かれていたのですが、二人は経済的なことなど境遇の関係で人を好きになったことがなかったそうです。そこを読んでいて、不覚にも泣いてしまいました。昔、ある雑誌で最近人を好きなる方法を忘れてしまったとある歌手の人がインタビューに答えていましたが、好きになることを忘れるという感覚を分かると思える人はいても、好きになったことがないから、好きになるという気持ちが分からないという感覚はどこか自分とは別の場所にあるもののように感じられるから、不憫だと思うのかなと思います。でも、そのときに忘れているのは、もし、自分の親がその当事者だったらという意識で、不憫さを感じてしまう安易さを反省してしまいます。そして、一番忘れているのが、自分も「高齢者」と呼ばれる存在になるということで、そのときに何を思って何を考えるのかということを考えると、ちょっと、悩んでしまいます。