大津由紀雄、鳥飼玖美子『小学校でなぜ英語』岩波ブックレット

この本を読もうと思ったのは、タイトルと同じような疑問を持ったからです。先日、朝、出掛けにテレビを見ていたら、小学校で英語学習が義務づけられると言っていました。それを聞いて、ゲって思いました。もう何年かしたら、巷は英語ぺらぺらな若者であふれかえるのかなと思いました。その頃には自分は立派な中年だろうし、今でさえ、若者は「他人を見下す」って言われているのに、「コイツ、英語もできんのか」って顔で見られるようになるのかなと思うととても憂鬱です。(今のパソコンとかインターネットで若者が上の世代に向けているものとおんなじ感じで。)でも、その報道で分からなかったのは、英語授業専任の人員を割くのではなく、原則担任の先生が英語の授業をうけもつようになるようでした。でも、その先生をサポートする人員は新たに割くようなので、メンドくさいなあと思いました。サポートする人は「英語ができる」人を選ぶようなので、あっぷあっぷで担任の先生にさせるよりも、その人にサポートじゃなくて授業もしてもらったほうがいいんじゃないのかなと思いました。(授業の後で担任の先生とサポートの人が授業の反省をしているシーンがあって、先生は子どもたちに「Introduction you.(自己紹介してください)」って言って、ぽかーんとされていて、もっと具体的に指示を出すように指摘されていて、「Introductionは子どもにはムズカシかったですかねぇ」って感じで反省会をしていたのですが、思わず「そこかい!」と心の中でツッコミをいれてしまいました。文法的におかしいかもしれない点を全然考えていないようでした。)

この本は、今回の変化ではなく、総合的な学習が導入されたときにほとんどの学校が英語を行うのではないかといわれたときに出版されたもののようでした。読んで印象に残ったのは、「そもそも学校教育の第一義的目的は社会的必要性(ニーズ)に直接応えることではありません。」と言い切っていることです。だから、社会的必要性に応えるために英語教育をする必要があるとする説明に反対するというカタチでした。

私は英語の早期教育がいいのか悪いのかよく分からないのですが、ただ次のようなことがとても気になります。以前、矢沢永吉さんが後輩を連れてドイツを旅する番組を見たことがあるのですが、矢沢さんは英語がとても流暢なのですが、あるスーパーで塩を買うシーンがあって、店員さんは全然英語が分からないのに、ずっと英語で話しかけ続けていました。そうじゃなくても、明らかに英語圏出身ではない外国の方を前にしても、無理やり英語で話そうとする場面を日々の生活の中でも見かけます。英語を勉強することが「異文化コミュニケーション」の発達に利するという前提は、相手がどういうコトバを用いるのかを考えるワンクッションをおく余裕を奪ってしまう側面はないのかなと思います。