ウィリアム・R・ラフルーア『水子』青木書店

この本を読もうと思った理由は次のようなものだと思います。中学校2年生だったときの担任の先生が少しお休みされたことがあって、復帰してから「実は赤ちゃんが流れかかってて」と言われたことがあって、(その後、無事に出産されました。)その言い方はさらっとしていたのですが、その時の表情が陰を含んだものだったので、自分のお腹の中に一度宿ったものが離れていく(かもしれない)ことを受け止める気持ちって大変なのだろうなと思って、自分だったらどうだろうと思ったことがありました。あれから年月がたって、自分自身、子どもがいてもおかしくない年齢になったのですが、流産というどちらかといえば積極性が言われないことでも、罪悪感を感じてしまうかもしれないのに、中絶の場合、そこに自分の選択がモロに入りこんでいるように思われてしまって、なおさら自責を感じるかもしれないこと(私だったら、きっと立ち直れないほど不安定になると思います。)にどう折り合いをつけていけばいいのだろう、と思っていたので、この本のタイトルを見て、読んでみようと思ったのだと思います。

水子供養のことをはじめて知ったのは、大学の講義でのことでした。教育史の講義で、詳細は忘れたのですが、水子地蔵に書かれていることなどから近似的に当時の子どもや家族のことを知ることができるというお話しで、供養そのものを扱ったものではなかったのですが、水子供養のことがとても印象に残りました。そのこともこの本を読んだ遠因かもしれません。

読んで印象に残ったのは、「多くの日本人が供養のなかで中絶胎児に謝罪をする理由は、自分たちの人間らしさの感覚を保ちたいからである。」(p199)という著者の主張です。これは、子どもを殺すという残虐な行為をしてはいるものの、罪を感じる、つまりそのひどさを感じていることを謝罪するというカタチを通じて確かめることで、例えば「自分は優しい人である」といった感じの前提を失わずに済むといった説明のようでした。著者自身は、そのこと自体を悪いことだと糾弾してはいませんでした。(結局、利己的だから、そんなものは「本当」のやさしさではない、という紋切り型の批判はありませんでした。)

あと、水子供養による中絶のある種の「解決」はプラグマティックで、アメリカでの中絶論争の場合、本来アメリカの十八番であるはずのプラグマティズムが忘れられていることと対照的だという説明があったのですが、そこはとても意外な感じがしました。

本の内容自体とは離れてしまうのですが、著者の言うように自分が人間らしいことを証し立てする必要のある社会というのは、裏をかえせば、残虐性や非道さを人に対して常に責め立て続けていることを表しているのかなと思いました。