辻山良雄『本屋、はじめました:新刊書店 Title 開業の記録』苦楽堂

 「日本の人口は減っていますし、これからも本を読む人の数は減り続け、それに従い書店の数が減り続けることは、間違いないことだろうと思います。」(pp.200-201)

 以前、外出した際、いくつかの書店に久しぶりに足を向けました。同伴していた人を待つ間にフラっと寄ったリアル書店の店頭は私にとって意外なものでした。日頃、ネットで得ている情報で形成されたイメージとは違っていたためです。

 インターネットでの書名への接触頻度に、いわゆるフィルター・バブルやキャス・サンスティーンのサイバーカスケードのような影響による偏向があるとしても、世に出回っている書籍、近刊・新刊・既刊(既刊の中でも出版時期による鮮度のグラデーション)に対して感じている遠近感とは違うヴィジュアルがそこにありました。

 要するに自分が知っていると思っていた本が全然なかったのです。

 「本屋にできることは、なるべくお客さまと本との出合いがスムーズにいくように、邪魔をしないということです。」(p.150)

 私がネットで得ている出合いはそれらのリアル書店では得られないということになる。その分、代わりに別の出会いがある、とも考えられます。でも、それが自分の好みに適うかどうかは分からない。

 「Titleの場合、みすず書房白水社筑摩書房平凡社など人文、文芸、芸術などのジャンルに強く、本の佇まいがどれも静かで品の良いものを多く出している出版社の本からその多くを選んでいきました。」(p.96)

 棚を見ても平台を見ても、誰が何を考えて何のために置いて/並べてあるのか焦点がぼやける。この本を読んでうかがえる辻山さんのスタンスからは、それは全く感じられません。

 「一冊だけでは一冊の本にすぎないものが、ある規則に従いながらほかの本とともにずらりと並ぶことで、より深い意味を帯びてくる。」(p.128)

 「自分が置きたくないというよりは、それらの本に関して詳しい説明がまったくできないからです。」(p.142)

 また、Titleで売れている本を形容した言葉には、ハっとさせられます。

 「替えがきかない『切実な本』にこそ、人の興味はあると思います。」(p.183)

 もしも、切実な本にリアル書店で出会う確率が低いのなら、その店頭から受け取る隠れたメッセージは「切実さは考慮しない」ということなのかもしれない。そこから感じるのは殺伐さや荒涼とでもいうようなものです。

 そんな寂寥は独りよがりな価値観からくるものかもしれなくて、マーケティングから売れる本が場所を占めている店頭の姿こそあるべきもので正しいのかもしれません。でも、たくさんの本が出ているのに、それらに書店の店頭で出会えないことを寂しく感じる私は、Titleに実際に足を運んでそれを体験してみたい、この本を読みながらそんな風に思っていました。

 冒頭に引用した部分は次のように続いています。

 「しかし本を読む人の数は一定数残ると思います。そしてその残った一定数の人の期待に応えられるような店が、これからも残っていくのだろうと思います。」(p.201)

加藤元浩『Q.E.D.iff』6巻 講談社

 「自分だけが救われたい

  ここは凍えるような世界」(大木彩乃「冷たい世界」)

 この巻収録の「地球に落ちてきたと言っている男」を読んだ時、自分の中に再生されたのは、冬の冷たい風景でした。感触としては、肌を刺す寒さが感じられます。

 と、言うのもシリーズ初期の話数、主人公がMIT時代に弁護士事務所で働いていた際のエピソードを思い出したためです。その話数は、少し間をあけて後日譚も描かれていましたが、実際はどうあれ自分の中では、冷たい場所でクライマックスが展開していた印象が残っています。

 「まるで・・・・さびしい宇宙にいるみたいだった」

          (「地球に落ちてきたと言っている男」)

 森絵都さんの『宇宙のみなしご』という題名を思い出しますが、相手のことを「分かる」ということが復讐心を鎮めることはあるのでしょうか。

 かつて自分が感じたことのある気持ちと同じものを相手も感じていると忖度できる、それは相手を「分かった」と言えることなのか。仮に同じ言葉で気持ちを表現していたとしても、同じものを感じているとは限りません。でも、同じような言葉が相手の口から発せられるのを聴くと、自分と似たようなことを感じているのだろうと思ってしまいます。

 「一人で死にたくない」(「地球に落ちてきたと言っている男」)

 登場人物の言う「さびしい宇宙」は凍えるようなとても冷たい場所のように思います。

 

 「死の際に立たされるような災難に遭うとき 前兆があるとは限りませんよ」

                              (「急転」)

 「急転」は真犯人の動機を理解できませんでした。もしも自分だったら、同じ立場にあったとしてもその理由では人を殺せはしないと思います。その悪は悪として詳らかにして他のチャンスを待つ、と思います。でも、ブラウン神父が自身の中にいる殺人を犯しそうな部分に恐怖を感じていたことを思い出すと、そういった考えは過信や驕りに属するものなのかもしれません。

 「急転」の被害者が「そうせざるを得ない」状況に追い込まれたように、条件次第では自分自身、信じていなかった行動をとるかもしれない。それは自分か他人かの違いだけで人を殺すという意味では同じことで、他殺と自殺は思っているよりも似たものだとこの話数を読んでいて知らない間に考えてしました。なので主人公のセリフが胸に刺さってきます。

 「前兆があるとは限りませんよ」

加藤元浩『C.M.B.』34巻 講談社

 この巻には「消滅飛行」「マリアナの幻想」「古屋」の3話が収録されています。

 「消滅飛行」と「マリアナの幻想」はともに老人の「後」を追いかけてお話が展開しています。

 「自分より年上の者が望んで旅をしてるのに お前さんはモリオのなにを知ってるんだ?」(「マリアナの幻想」)

 高齢者が一人で旅に出る。残された家族は放っておけないと思う。日頃、人間に限らず、年を経たものは敬うべきものだと漠然と考えています。でも、そこで「敬う」形として自分はどういったものを考えているのか、この話数は問いかけてきます。

 大切にする、などと言いながら実はその対象のことを知ろうともしていないのかもしれない。

 「年寄りの記憶がアテになるかね?」

 「みなさん昨日のことのように話してくれます」(「消滅飛行」)

 最初からアテにならないと思うのではなく、話をしてみれば得るところはある。

 この2話のうち、私は「消滅飛行」の方が好きでした。

 「あんたらをここへ呼んだのは・・・あの男なんだろうな」(「消滅飛行」)

 それは、ただ年月を重ねただけではなく、執念とでも呼ぶべきもので長年つづけたことが真実を明らかにするという展開が自分のツボにはまっていたからだと思います。

 と、懐古趣味風の感想で終わればよいのですが、3話目の「古屋」は古いことの良い面だけでなく、年配のものが年少者からおいしいところ取りをするという悪い面を思い起こさせるもので、ピリっと締まります。