青柳碧人『浜村渚の計算ノート7さつめ:悪魔とポタージュスープ』講談社文庫

 「浜村渚も、僕たちには見えないものを見ることのできるタイプの人間だ。」(p.115)

 高校生だった頃、数学の先生が授業中、唐突に言い始めたことを思い出していました。みんなは、数学Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、数学A・B・Cといった風に区別して習うからバラバラなものだと思ってしまう、でも実は同じものを違った見方で眺めていることもある、そういった視点を失わせてしまう教え方をしてしまっている。そんな主旨でした。

 「『×(-1)』は、数直線上を、左回りに半周するっていう魔法ととらえるんです」(p.51)

 マイナス掛けるマイナスがプラスになることを疑問に思う大人に対して浜村渚が行った説明に含まれる表現です。このくだりを読んでいて私は複素数のかけ算を極形式で見た時に回転していくように見えること、ベクトルのかけ算も回転運動に見えることを思い出していました。イメージ先行で詳細や正確なところは覚えていないのですけれども。

 少し大きな書店へ行くと、数学の棚にも様々なプレートが並んでいます。正直に言ってそれらを見てもちんぷんかんぷんです。

 「だいたい『1たす1が2になる』なんて当たり前でしょう。学校でわざわざ教えるようなことでもない」(pp.245-246)

 でも、自分には解らないものを解る人がいる、見えないものを見てくれている人がいる、そう感じて根拠のない安心を得ます。

 「義務教育から数学を消すなんて政策、本当に正しいと思っているのかな?」(p.322)

 図書室でのあるヒトコマ。特に話をしたこともない同級生が数学の本を読んでいました。図書委員だった私は彼と一言二言、言葉を交わしました。「分からないから」。前後の文脈は忘れましたが、自分にとって全く分からないものを分かろうとして読んでいく人がいる、そう思ったことは強く覚えています。

 この浜村渚のシリーズを読んでしまうのは、自分とは違った世界の存在を感じさせてくれるからだと思います(じゃ、「自分の世界」はあるのかという問いには気づかないふりをしておきます)。優等生的に多様性を大切だと思っているフリをしたいだけなのかもしれない。

 「『253』のあとにちゃんと『254』がくるか、ちょっと考えたら不安になりませんか?」(p.258)

 当たり前だと思っていることが、ちょっと追究されれば怪しくなる。自分の頭では説明できなくなる。幅の広い道路だと思っていたのが実は細い平均台の上を歩いていた。とても怖いです。でも、その傍らで平均台を支えてくれている人、その強度は大丈夫だよと分かっていてくれる人がいることはとても心強いことに思えます。

 いろいろなことで弱気になってしまうとき、安心を得たいという要求にこたえてくれる、それがこのシリーズだと思います。

 「いつまで数学の話、してるんだよ」

 「死ぬまでずっと、ですよ」(pp.198-199)

 

以下、覚書です。

 log10.「深夜マイナス1」

 中谷健太郎『由布院に吹く風』岩波書店

 エルツェンス・ベルガー『普及版 数の悪魔』晶文社 

 広瀬正『マイナス・ゼロ』集英社文庫

 アルベルト・A・マルティネス『負の数学』青土社

 西加奈子『i』ポプラ社

 log100.「不可能彫刻の森

 牟田淳『アートを生み出す七つの数学』オーム社

 トーマス・ハル『ドクター・ハルの折り紙数学教室』日本評論社

 森博嗣『すべてがFになる』講談社文庫

 七河迦南『七つの海を照らす星』創元推理文庫

 log1000.「プレゼントにリボンをつけて」

 ジョージ・G・スピーロ『ケプラー予想』新潮文庫

 アーサー・ベンジャミン他『グラフ理論の魅惑の世界』青土社

 シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド』新潮文庫

 『中谷宇吉郎の森羅万象帖』LIXIL出版

 イアン・スチュアート『自然界の秘められたデザイン』河出書房新社

 ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』柏書房

 log10000.「数学手本忠臣蔵

 『ペアノ 数の概念について』共立出版

 新井紀子・新井敏康『計算とは何か』東京図書

 ジョナサン・ウルフ『「正しい政策」がないならどうすべきか』勁草書房

原作:草水敏、漫画:恵三朗『フラジャイル:病理医 岸京一郎の所見』4巻 講談社

 このマンガは病理医である岸京一郎を主人公としています。でも、私は主人公を積極的に描いていないマンガだと感じながら読んでいます。細かく描かれているのは、彼を取り巻く人々。周りが明瞭になることで、それらを輪郭にして主人公である岸京一郎という人物が浮かび上がってくる、そんなマンガであるような気がします。

 

 「さぞかしご心配でしたね

  ご安心ください    」(p.180)

 

 例えば、この4巻では同僚の年配放射線医師に焦点があたります。彼が患者さんの気持ちを和ませるために使うマジックワード。岸先生の元で働く部下は、その言葉の勘所に気づきます。ところが、その言葉の出自が何だったかというと・・・。

 タネを明かせば「なんだパクりじゃん」と思う人もいるかもしれない。でも、そこにいたるまでに経た試行錯誤、葛藤の軌跡が感じられる描き方になっている。だから私は文字として全く同じ言葉であっても、駆け出しの彼女が使ったなら、同じような効果を患者さんには及ぼさないような気がします。

 

 「苦労したんですよ

  家がちょっと複雑でね

  いい奴なんですよ

  なんとかしてやりたいんです」(p.17)

 

 緩和ケアを専門にする医師はこう岸先生に洩らしています。このセリフを読んだ時、私は逆のことを考えていました。仮に苦労をしていない患者だったら、この医師は「なんとかしてやりたいんです」と思わないのか。そうは思えない。前巻までに描かれたこの医師の姿からは、「なんとかしてやりたいんです」に至る前段の理由らしき部分に並ぶ言葉が違うだけで、力になりたいという部分は変わらない気がします。

 放射線科の医師にしても、緩和ケアの医師にしてもたどり着いた形がその人を表しているのではなく、それは結果でしかなく、それまでにたどった軌跡がその人自身であるということを感じさせます。

 こういった考え方は恣意的です。作中の表現に倣えば、エビデンスがない、ということになるかと思います。結局、同じものを見ても例えばその人の言葉に重みを感じられるかどうか、自分の知っている範囲のことを基にした推測や思い込みでしかないのですから。

 それでも、何か他とは違うと感じさせるものがあるとき、あるいは本当は大変で難しいことを何気なくやっていることに気づかさせられるとき、その瞬間瞬間には、その人がそれまで経てきた紆余曲折、艱難辛苦が表れているように思います。

 そう考えると、5巻で岸先生から放射線科医へ手向けられた言葉は至言です。

 

 「バカ正直に長年続けることを誠実って言うんですよ」(5巻 p.180)

朽木祥『海に向かう足あと』角川書店

 題名に見せられる映像があります。

 『海に向かう足あと』という言葉に触れた時、私が見ていたのは海へ続く足跡だけで、その画には海から帰ってくるものは映っていませんでした。つまり、私が題名に接触したときに感じたメッセージとは入水自殺でした。もう少し穏やかに言えば、「帰ってこない」という響きを聞いていました。

 「一番大事なのは、生き残って戦い続けることだからさ」(p.136)

 どうしてこの題名なのか。この本について実際に読む前に「ディストピア」という情報が提示されています。帯にある「ディストピア小説」という文言。ディテールとして何が起こるのかは分からなくても、どういった種類のことが起こるのか想定してしまう。自分の中で題名によって形成された予断が肉付けされます。

 「この海がずっと遠くの国までつながってるんだなあと思うと、一生たどり着けなくてもいいような気がして」(p.85)

 先日読んだアラン・コルバンの『空と海』で、大気と気象の表象について書かれている箇所がありました。ある時、大気つまり空は遠くまでつながっているものだと発見されたと。そういった捉え方は遠くの気象がここの天気の変化(逆にここの変化が遠くの気象)へ影響していることを前提としています。

 「海へ向かう足あと」という言葉から私が感じていた射程は、海を終着点とするものでした。でも、上に引用したセリフのように海自体は更に遠くへ続いている。他とのつながりを感じない見方をしてしまっているとき、互いに影響し合っていることも忘れています。

 「キノコ雲はね、二つ見えたのよ。」(p.210)

 広島と長崎。この本で起こることや設定に新しさはないのかもしれません。ただ、著者の行っていることが、過去に現実に起こったことの焼き直しなのではないかと思った瞬間から、この小説の肝は何が起こったかではなく、それがどのようにして(whyというよりもhowとして)起こったのかを伝えることなのではないかと思えてきました。

 もちろん、フィクションなのですが、時間軸として未来に設定されているにも関わらず書かれているのは、これから起こることではなく、既に起こったことなのではないか、と感じられる連想は、空間として大気や海の遠くとのつながりを見落としていたように、時間の上でも例えば過去と現在と未来のつながりを失念しているのではないかという疑念に至らしめます。

 まるで著者が「忘れてはいけない」と言っているように感じられます。

 「見送る人が必要ですからね、海に出て行く船には」(p.239)

 この本の題名から私が作り上げた先入観にはもうひとつ抜けている視点がありました。それは陸にも人がいるということ。「海に向かう足あと」が存在するには、陸からそれを見る視点がなければならない。そう、リクがなければならない。

 お話の後半、登場人物のひとりが海へ向かうよう促されるシーンがあります。その時、海が象徴するのは救いや未来です。

 渚を現在にして、海を未来とする比喩が許されるなら、陸は過去に相当するのかもしれない。「海に向かう」というベクトルならきっとそうです。そう考えると『海に向かう足あと』という題名自体が「過去はある」と示しているように感じられます。

 つながっている過去を忘れてはならない、以上ぐだぐだと書いてきた感想をまとめれば、私が聞いたメッセージはこうなります。

 そして、今更ながらヴァイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」(p.109)がはっきりと引用されていたのを見逃していたことに気づきます。